「外に、連れ出してやろうか」
 
「ふふ、まったくだからお前は、莫迦だというのだよ」
 
 
 
 
 
-  a cappella  -
 
 
 
 
 
トロリと明滅する星を内包した、それ自体が鈍色に輝く闇で出来た椅子にソレはいつも座っている。
 
其処は常には廃墟のような場所であるが、時に色彩豊かな花が咲き乱れる絢爛の春にもなる。
そして1つの瞬きの後には木枯れた冬になり、2つの瞬きの後には白い夜になった。
その空間に於いて不変であるのは、ゆらりと陽炎のように揺らめき続ける黒い椅子と、其処に腰掛けているソレだけだ。
ある程度『自我』という意志持つ『ソレ』と、周りの事象であるそれ等を区別するため、意志持つソレを『彼』と呼ぼう。
彼は常に椅子に腰掛けている。
ゆったりと背を、揺らぐ背もたれに預け、身に纏っている嵩張る衣の隙間から僅かに覗く白い両の手を、膝の上で重ねていた。
彼は滅多に動かない。
時折、何かに気付いたようにコトリと首を傾げるくらいで、口元も指先も永い間ピクリとも動かさない。
彼の顔を覆うのはその長い髪の毛だけではなく、幅広い布のような物が彼の顔の半分から上を覆っていた。
つまり彼の瞳が在るべき場所は顕れて居ないわけだが、彼にはそれは全く問題ではなかった。必要がないからだ。
彼に視力らしきものはなく、それを『見る度に腹立たしい』と言った者によってそうして覆いをされたにすぎない。
 
彼はふと、夜の気配が薄らいだのを感じた。
変わりに強くなった、暴力的なまでの水底の気配。彼は久しぶりに唇の端を僅かに引き上げた。
 
「相変わらず気が散る場所だ」
 
眉をグ、とひそめながら愉快そうに不愉快を表したソレは、空間の扉を開き、その残滓を身にまとわりつかせながらやってきた。
光の色から海底の色へ、ゆらゆらと変化し続ける髪を無造作に流した男の姿をしたソレは、鬱陶しそうに、黒い椅子に座る彼を見た。
黒い椅子に座る彼は、コトリと首を傾げた。――――空間が僅かにブレる。
 
「そう言うのなら、わざわざこんな処まで、来なければ良いのに」
 
「迷惑そうだ」
 
フン、と傲慢に顎を上げて嗤った男に、彼は首を傾げたまま、また僅かに笑んだ。
彼は声を出すこと自体がもう随分と久しい事だったが、彼にはあまり時間というものは意味を成さず、またその概念も彼の中にはない。
目の前の男と最後に逢ったのはいつだったか、彼は忘れていたし気にしなかった。
そうではないよ、と言った彼に、男はどうでも良さそうにそうかと言い、周辺の空間をぐぅるりと見回した。
じっくりと風の動きすら探るような目の動きに、彼は男が何をしているのか、探しているのか解っていたが、解っていたから無言を通した。
 
「気配が」
 
残っているな、と憎々しげに男は吐き捨てた。
 
「そう」
 
彼はあまり興味無さそうに言葉を返す。実際彼にはもうその気配は感じ取れなかったし、探る程の注意も払っていない。
この、全てが変化し続け、茫洋として曖昧で、それでありながら一瞬一瞬が強烈なこの空間に居て、彼を惹き付けるものは何もない。
彼の(本当に在るのか、または在ったとしても機能しているのかは定かでない)心を歪ませるのは、稀に訪れる『客』だけだ。
目の前で不機嫌に笑う、男のような。
 
「何か、求められたか」
 
「求められた…、ああ、そう、そうだね、アレは何か私に、求めていた。なんとまぁ、無駄なことだよ」
 
「ははァ、」
 
ここに来て初めて男は愉快そうに顔を歪めた。髪がざわりと揺らめき、纏う雰囲気さえも愉悦に震える。
 
「クトゥルフ」
 
彼は男の名を、その男をその男として識別するために男が生まれた時から持っていた個の名称を、ゆっくり唇から押し出した。
クトゥルフは、にこりと笑った。この男に可愛い顔はなんて似合わないんだろうと彼は可笑しく思ったが、その言葉は口の中に押し込む。
 
「きみは本当に、あれが嫌いだね」
 
「それ以前の問題だ、存在すら認めがたい。機会があれば消したいが、」
 
「きみには無理だよ」
 
ふふ、と珍しく声に出して笑った彼に、クトゥルフは興味深そうに近寄った。煌めく黒い椅子に腰を落とす彼との距離を縮める。
明らかに己の力不足を指摘されたが、男はそれを事実だと認めているため特に気にした様子はないし、第一彼に嘲りの意識はない。
 
「あれは私達を、そう、悪という概念…かな、そういうモノに当て嵌めてて、えぇと………………あれ、ちょっと、待ってね」
 
「無理して喋らずとも結構だ、大体言いたいことは判る。…お前は時々、幼稚な言葉遣いになるな。ニャルラトホテプのようだぞ」
 
「嗚呼、そうだ、そう、あの子は元気かな」
 
いまいち会話の成り立たない様子に、クトゥルフはやれやれと頭を掻いた。酷く『生き物くさい』その仕草に、彼は可笑しそうに息を吐く。
悠久の時をこの場所でこの椅子で過ごす彼は、愚痴の王とも呼び習わされる存在だ。
その意識はあらゆる空間や事象に飛び、常には此処に在って此処に無い。
考えるという行為すら遠く、感情も一度に幾つも生まれ消える。有と無を繰り返し、変化し続けていながら恒久的に普遍のもの。
原初の混沌。始まりにして終わりにして、そのどちらも持たぬのが彼だ。
まぁけれどつまり簡単に言ってしまえば、彼とはまともな会話が長く成り立たない。考えることにも、喋ることにも、慣れていないので。
ましてや考えながら話すという芸当が彼に出来るとは、クトゥルフも思っていない。
(ちなみにクトゥルフが知る限りの『彼を知っている存在』たちは、みなそう思っている)
 
「元気だ。煩いほど。今回はアイツに黙ってここに来たから、バレんようにせねば」
 
「黙ってきたの」
 
「アイツとここへ来ると、門番から小言を食らう。アイツはいちいち気配が煩いと。…それで何故オレまで怒られるのかがわからん」
 
「ふふ、あの子は君がお気に入りだものね。…ヨグは結構適当だから、一緒くたにしてまとめて叱っておいたんじゃないか」
 
迷惑だ、とクトゥルフは嘆くが、それでもそれなりにニャルラトホテプの相手をしていることを彼は知っていた。
この深海の王はニャルラトホテプをどちらかと言えば好いているし、今の状態をそれほど不本意だと思っても居ない。
どんな状況でも楽しんでみせることの出来る、享楽的で好戦的な性質をもつ男だった。そしてそれはニャルラトホテプにも通じる性質だ。
珍しく愉快そうに唇を歪めている彼の椅子の、両の肘掛けに両手を突き、クトゥルフは彼を見下ろすようにしていった。
 
「アザトース」
 
「なァに」
 
「お前はいつまでこんなところに居るつもりだ。いつまで此処で座し、此処で傍観者で在るつもりだ」
 
「問いかけの意味がわからないよクトゥルフ。私は存在を始めた時から傍観者であり、干渉者であり、当事者だ」
 
そうじゃないか?と小さく笑うアザトースは、まるで幼子を宥めるようにゆっくりと語りかけていた。
クトゥルフは溜め息を1つ彼の上に落とし、グッと彼の耳に顔を近づけ、秘密を打ち明けるように微笑みながらコソリと囁く。
 
「外に、連れ出してやろうか」
 
アザトースの細く白い骨のような手をするりと掴み取り、軽く引くような動作をした。周りの景色がクラリと揺れた。
盲目の混沌は一瞬、何を言われたのか判らなかったように見えない目で深海の王を見上げたが、瞬きの後にはまた小さく笑い出した。
 
「ああ、また、可笑しな事を思いついたものだね」
 
クツクツと笑う彼に、クトゥルフも口の端を歪めた。この混沌が笑うと、心の臓が泡立つような、不思議な高揚感が内蔵を駆けめぐる。
自身が莫迦なことを言っていることはよく解っていた。そしてアザトースがこういった反応を示すであろう事も、実に正確に予測できた。
 
「私が出れば、世界に干渉するよ」
 
「良いじゃないか、世界がグチャグチャになる。想像するだに素敵だと思わないか」
 
「ふふ、まったくだからお前は、莫迦だというのだよ。それが面倒だというの」
 
クトゥルフはアザトースが基本的に、退廃的で受動的な性質、つまり言ってしまえば大変な面倒くさがりであることをよく理解していた。
余程の気まぐれが無ければ彼は世界をかき混ぜたいとは思わないし、この場所を動いて事象に干渉することも望まない。
彼はその存在の艶やかな異質さ故に、幾多の世界とそれに従ずる存在に及ぼす影響が計り知れない。
この、空間を特定し足を踏み入れることすら難い門の内側の場所にいてさえ、彼の波紋は門の外の世界へ染み渡っていく。
アザトースが首を傾げたり、ほんのすこぅし手を動かすだけで、この空間を支える楔は震え、空間が揺れる。
空間の歪みは、今頃どこかの世界で大気を荒らし、どこかの世界で大地を壊しているだろう。
彼はそういう存在だった。
 
「ああ、実にお前らしい。なら、いいさ。精々自分で世界を楽しくしてみよう」
 
肩を竦め、アザトースの手を元の位置に戻してやると、クトゥルフはくるりと背を向け、その空間から抜け出すための門を探しにかかった。
ヨグ=ソトートを待たせておけば良かったか、と舌打ちしかけた処で、背後から静かな声がかかった。
 
「気をつけなさい、クトゥルフ」
 
静かだが神経を1つ1つ拘束するような圧力の在る声に、クトゥルフはアザトースを振り返った。
アザトースは自身が本来持つ混沌の気配を(恐らく彼は無意識にだが)ドロリと濃く練り上げながら忠告する。
 
「アレに狙われているよ。きみたちはみな、今再び、狙われている。油断してはいけないよ。気を付けなさい」
 
クトゥルフは鼻に皺を寄せて、この様々な気配の濃い空間において微かに残る、先程探した残り香に意識を向けた。
 
「ワケのわからぬ正義を振りかざす、相変わらず、愚かなノーデンス。奴らが何かするとでも?」
 
「きみに聞かれたね、何か求められたかと。そう、求められた。アレは私に、私がここから動かないことを求めた」
 
「つまり俺たちに何かあっても、お前は動くなと」
 
「そういうことだろう、無駄なことだが。私は誰の求めにも答えぬ。私は動けないし動かない。きみたちの生死など私には他人事」
 
ククッとクトゥルフは嗤った。ノーデンス。気配も匂いも全て気に食わないが力は強い、あの忌々しい自己顕示欲の強い男。
気持ちの悪い男だ。
過去に一度、我らに勝利したが故に随分と思い上がっているらしい。
アザトースは、ユラリと濃くなった昏いの海の気配に、仕方のない子だ、とうっすら笑みを浮かべた。
その生死に興味はないが、存在は愛おしい。
クトゥルフもニャルラトホテプもみな、彼にとっては気まぐれに世界に干渉した結果であり、今も広がり続ける些細な波紋でしかない。
しかしこうして存在を近くに感じれば愛おしさに似た感情が壊れた心から湧き上がり、充実感にも似た恍惚が身体を満たす。
アザトースの存在に干渉できる、ほぼ唯一ともいえるものが彼らだった。
 
「気を付けなさい、クトゥルフ。悪巧みは1人より、みなですると良い」
 
その方が愉しいだろうしね、と混沌は言う。
 
「そうしよう。…何より誰より、悪巧みの発案者はニャルラトホテプだ。奴は俺たちとは比べものにならんほどノーデンスを嫌っている」
 
ニャルラトホテプはその強大で濃厚な力故に全てより自由だが、その男が唯一執心を持つのが目の前の魔王だ。
(そして何故か、自分にも酷く興味を示している。存在の重圧は、比べるまでもなく、彼の方が上なのだが)
彼は、ノーデンスが(悪の根源のようなものとしてだろうが、)アザトースに執着しているのがこの上もなく気に食わないらしい。
 
「……さて、オレは行く。気が向いたら、また来るよ。我らが王」
 
「そう、いっておいで。楽しんで」
 
別れの挨拶とばかりに今一度小さく笑みを浮かべ、アザトースはクトゥルフを見送る。
深海の王は肩をすくめた。楽しむも何もないだろうに。クトゥルフは今、海底に封印されている身だ。
時々、僅かに弛む封印の楔の合間を縫って、こうして、短い時間、精神を外に出せるだけにすぎない。
 
会話の間に探し当てた空間の歪みに手を突っ込み、クトゥルフは握りつぶすように刺さったままの『鍵』を掴んだ。
すると、すぐに怒気の手応えを感じ、その余波を喰らう前にとさっさと手を引く。
そして間一髪、今まで手を突っ込んでいた空間がぐずぐずと見事に溶け出した。熱も無いのに、そこはどろりと歪む。
やがてその溶けた歪みが捲(めく)れ上がり、1人の男が邪魔そうに空間の襞(ひだ)を避けながら姿を現した。
 
「てめぇ崩されてぇのか、クトゥルフ」
 
灰の髪に黒の帽子を載せたその男は、自分より幾らか上背のある男を睨め付けながら今にも殺してやろうとばかりに唸った。
クトゥルフは飄々と肩を竦めた。
 
「まさか。ここを出るから、お前を呼んだだけだ、ヨグ=ソトート。門番がいなくては、オレは門を渡れん」
 
「力任せに掴むな、痛ェだろうが。この、くそ、馬鹿力。そういう力だけは無駄に強ぇんだからもー」
 
ぶちぶちと文句を言うヨグ=ソトートに、クトゥルフは在らぬ方向を見て知らんぷりを通した。
クトゥルフは、いわゆる物理的な力だけで言うなら、彼らの中でも1、2を争う強さを誇る。
しかしこういった、空間を渡る時に必要とされる力などは甚だ乏しく、こうして門にして鍵である彼に手伝って貰わなければならない。
 
「ヨグ」
 
クトゥルフの背後から小さく呼ばれ、ヨグ=ソトートは視線を向けると、目を細め婉然と微笑んだ。
男の横をさっさと通り過ぎ、闇色の玉座に座る、自らの根源たる存在にそろりと触れる。
 
「おいで。この私でさえ久しいと感じるほど珍しい訪問だ、気まぐれな子」
 
ゆるりと持ち上げた白い両手で淡く抱きしめてやると、ヨグ=ソトートはその背がしなるほど強い力で彼を抱き返す。
ヨグ=ソトートだけでなく、その伴侶である黒山羊シュブ=ニグラスや、ニャルラトホテプも。
己が生まれるより遙か以前に生み出された、アザトースの最初の子供とも言うべきこの3人は、アザトースに触れても影響は少ない。
自分などは先程指先に触れただけでも、身体の中に彼の渦巻く狂気が濁流となって流れ込むので、長く強くは触れられない。
ああしてその身を抱きしめられるのは、あの3人だけだった。
 
「ただいま。確かに久しい、悪かった。別に、用もないのに顔を出してもうぜェかなと思ってよ」
 
にやにや笑うヨグ=ソトート。アザトースは少し眠たげに小さく笑う。
そろそろ、彼の精神がこの場所に留まっているのが限界なのだろう。クトゥルフは苦笑する。
多重に無数に飛躍している幾つかの意識を寄り集めて今、この会話が成り立っている。その意識がまた飛び出したがっているのだ。
その上、ヨグ=ソトートを抱きしめた両の腕の動きで、空間の楔がふるりと、一段と強く、震えた。
本人にこの場所を動く意志がない以上、この空間を壊さないために、そろそろ自分たちは此処を離れた方が良い。
 
「じゃあオレたちは行くぜ。またな、オレの王」
 
「いっておいで」
 
ヨグ=ソトートもそれを察し、さっさと身を離すと、もう見向きもせずにクトゥルフの横に並び、無造作に空間に手を突っ込む。
 
「ついてこい。ああ、はぐれないように、手を繋いでいてやろうかァ?」
 
内心酷く苛つきながらソレを無視し、にやにやと笑いながら先に歩き出したヨグ=ソトートの後に付いて、1つ目の門をくぐろうとした。
ふと、振り返る。
静かに座したまま、相変わらず緩やかに口元を歪める魔王。
ドコからか、笛の音が響いてきた。
彼を慰める卑しい音色。この宇宙の中心で独り、途切れることのない世界を気まぐれに見続ける原初の混沌への、賛歌。
 
 
まるで悪夢のような。
 
 
クトゥルフは意識を振り切るように彼から視線を外し、顕れたる門をくぐった。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
★コメント★
クトゥルフ小説第1弾”ア・カペラ”………いやぁ、なんとも読みづらい面倒な文章で…;;予想外に長ぇし!(笑)
旧神である”ノーデンス”たちとの戦いに敗れて、ニャル以外がみな封印されて暫くしてからを勝手に想像していじってみた。
封印されたっつっても、在る程度自由になることはあると思うのですよ。あんだけ凄い存在たちなんだしー。
クトゥルフは封印が弛んだ時だけ意識を外に飛ばせて、ヨグは空間の狭間という限定範囲に置いてのみ自由にさせてみました。
アザトースは、視力を奪われて(あまり意味ないけど)、あの空間に閉じこめられている(まぁそれもあまり意味ない)感じで。
 
さぁ、そろそろニャルラトホテプ(たち)の反撃が、始まるよ。  っていう、そんな、反撃の序章をイメージ。
 
 
2006/4/6
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